元就×郡山城
毛利元就×郡山城 500年のあゆみ
1497
明応 6年
- 毛利弘元の次男として、元就誕生(郡山城か)
1500
明応 9年
- 弘元が長男興元へ家督を譲り、元就を伴い多治比猿掛城へ
1523
大永 3年
- 元就、家督を継承し郡山本城へ入城、長男隆元誕生
1540
天文 9年
- 尼子氏、大軍で吉田へ侵攻し、郡山城周辺で毛利軍と合戦(郡山合戦)
1545
天文14年
- 元就の正室、47才で死去
1546
天文15年
- 元就が長男隆元へ家督を譲り、その後郡山の全山を城郭化
1563
永禄 6年
- 隆元、41才で急死、その後隆元の子輝元が家督を継承
1566
永禄 9年
- 毛利氏、尼子氏を降伏させ、中国一円を制圧
1567
永禄10年
- 元就・輝元、城内で幸若大夫の舞を、また観世大夫の能狂言を鑑賞
1571
元亀 2年
- 元就、郡山城において75才で死去、大通院にて葬儀
1573
天正元年
- 輝元、郡山西麓に元就の菩提寺洞春寺を建立
1591
天正19年
- 輝元、広島城に入るが、郡山城も引き続き存続する
1600
慶長 5年
- 毛利氏の移封により郡山城は廃城となるが、元就墓所は吉田に残される
1871
明治 3年
- 毛利元就300年祭、これにあわせて元就墓所と一族墓所が整備
1940
昭和15年
- 郡山城跡、国史跡に指定される
1971
昭和47年
- 毛利元就400年祭、この際に旧吉田町と山口県防府市が姉妹縁組
1997
平成 9年
- 元就生誕500年に併せて、NHK大河ドラマ「毛利元就」放映
2006
平成18年
- 郡山城跡、日本百名城に選定される
2021
令和 3年
- 元就没後450年
2023
令和 5年
- 元就郡山城入城500年、隆元生誕500年

毛利元就(1497~1571)
安芸国の国人領主であった毛利氏を、一代で西日本最大の戦国大名へとのし上げた毛利元就は、智謀を備えた名将として広くその名を知られている。
明応6(1497)年父弘元の次男として誕生後、猿掛城で青年期を過ごしたが兄興元とその子幸松丸の相次ぐ死去により27歳で家督を相続。以後、大内氏と尼子氏の勢力圏の狭間で巧みな調略を用い、大内方として次第に安芸の盟主となる。そして弘治元(1555)年厳島合戦で、周防の陶氏を破ったことを契機に戦国大名へと成長し、永禄9(1566)年、尼子氏を降伏させ中国一円を制圧した。元亀2(1571)年、生涯本拠地とした郡山城において75歳で死去。彼の死後も、一族の結束により毛利氏は大名として存続し、幕末の志士にも元就の存在は大きな影響を与えた。以後、今日まで郡山西麓の墓所に眠る。
現在でも「三本の矢」や「百万一心」等の逸話はもとより、アニメやゲームなどからも幅広い人気を得ている。

郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)
国史跡「史跡毛利氏城跡」、日本百名城(№.72)。
安芸毛利氏の本拠城として知られる郡山城は、吉田盆地を見渡す可愛川と多冶比川の合流点の北側に築かれ、戦国期最大級(東西1.1km、南北0.9m)の山城として知られる。
〇歴史
築城の時期は不明だが、15世紀中頃には毛利氏の城としての存在が確認できる。当初は「本城」とよばれた東南の支尾根上が城の中心で、元就が台頭した16世紀中頃に郡山全山を城郭化したといわれている。その後、輝元時代に広島城へ本拠が移り、関が原合戦後の毛利氏の移封により城としての役割を終えた。
〇構造
山頂(標高390m、比高190m)にある本丸を中心として放射状に270箇所以上の郭が築かれており、毛利氏が使用した戦国期の遺構がほぼそのまま残る。本丸などの山頂部は「かさ」と呼ばれ、元就とその家族が生活したと考えられる。ここには石垣の跡や瓦の断片が散見されることなどから、輝元時代の16世紀末に大幅な改修が施されていることがわかる。また中心部を取り囲む各尾根上には、家臣が居住したと思われる郭群が形成されている。一方、本城は戦国初期の形態を残しているといわれ、基本的には土造りで瓦は見つかっていない。さらに山麓部にも家臣団が居住し、城内外を区画する内堀が巡っていたことが判明している。
